干場良光のブリコラ日記

アート全般に関する忘備録です。

批評の存在意義

創造する人は、未知なるものに挑む人だ。既存の法則から逸脱もする。したがって、創造する人は、自分の作品のコンセプトを未だ知らない。未知のものを作ってしまうのが、創造者だ。批評家は、創作品が発表された後、そのコンセプトを探るべく言葉を紡ぐところに存在意義がある。現在は評価軸が多様に存在するため、作品を評価することは難しい。現代の批評家は、批評に説得力を持たせるため、自ら創作(批評家の創作活動はキュレーションして何人かの作家を選定し、作品展を企画、実行すること)し、テキストも発表している。

即興と未知

大友さんは、即興、ノイズ、ガラクタが好きなようだ。いずれも既知の理論とは馴染まないものだ。未知に向かうための素材であったり方法だ。未知に向かう態度は創造する人の姿勢だ。したがって、大友さんは、創造するために、即興、ノイズ、ガラクタを選択していることになる。

ビルがあくび

#「札幌国際芸術祭2017の評価」より

Clélia Zernik クレリア・ゼルニク美術評論家「堀尾寛太は空きビルを使い、自動的にシャッターが開閉したり、照明がついたりするインスタレーションを展開した。この芸術祭を最後に取り壊される建物が、長い眠りから目覚め、あくびをし、叫び声をあげていたかのようだ。」

今日、このビルの前を通ったら、防護布に覆われ新築の工事が始まったようだ。2ヶ月間、命を与えられた建物もとうとう人間の用途に従属する普通のビルになる。

#札幌国際芸術祭2017堀尾寛太氏の作品

廃ビル。狭い階段をよじるように登ると、2階らしき部屋にロープが張ってあり、何かが動いたりそれによって音が出たり。移動するために振り向いたら、カラフルな電気が光る。案内されて階段を下りると、どうやら地下の空間に案内されているようだ。暗闇の中で仕掛けられた何かが動いているらしい。一瞬ストロボライトっぽく光る。見終わって出ようとすると出口の上に設置されたベルが大音量で送ってくれた。廃ビルの再生。リニューアルされて新しいお店がテナントとして入って再生されたと言うことではなくて、人間の役に立たない廃ビルがゾンビになって命あるものとして再生された。いつかは朽ちる運命にはあるが、地球にイヤ宇宙に、モノが只のモノとして存在することは肯定されるべきだ。

4分33秒と大友良英のコレクティブオーケストラ#札幌国際芸術祭2017

#札幌国際芸術祭2017で実施された、大友良英によるコレクティブオーケストラ。1年かそれ以上、大友と劇作家などによって子供達を募集し練習してきたとのこと。オープニング曲は、小学3年生くらいのピアノも引いたこともなく練習もしたこともないような男子によるパイプオルガンの鍵盤を5音適当な感じで鳴らして始まった。鳴らし終わったら、オルガンに続く階段を降りて自分の定位置であるだろう舞台上の椅子に恥ずかしそうに座った。椅子の上に置いてあったリコーダーを手にした。空席の椅子だけが並べられて他に演奏者であるだろう子供達はまだ座っていない。音楽らしいものは全く始まっていない。時々ハウリングと言うのだろうか、電子音、機械音。キーンという感じの快と不快のギリギリの感じの音。疑心暗鬼でいつ始まるのか、これはもう始まっているのか、私は自問自答をしながら目を閉じ耳を凝らす。無音のような状態がしばらく続く。

可愛らしい音が聞こえてきた。目を開け見渡すと、お米を入れたペットボトルなど手作りの楽器を手にして、客席後方の階段から降りてきた。やがて舞台袖の階段を登りオーケストラのそれぞれの椅子に座った。どうやらコンサートは始まるようだ。多分ここまでがオープニングの一曲目だと思う。オープニング曲の間今までにないくらい耳に神経を集中させた。お陰で米がこすれるときの音や子供が階段を下りる時の音がこんなにも美しいと気ずくことができた。大友さんは観客が魅力的な音を発見する構造を設定し、観客は音楽の受容者でありながら同時に音楽の発見者になりうる。演奏者とそれの需要者としての立場が逆転というほどでもないが、聴取者である私は会場に漂う音を自分なりにキャッチし発見した。たまたまその音を美しいと感じた。別な聴取者はその音を聞いてもただの歩いてる音なのでなんとも感じていない人もいる。大友さんは場を提供し、観客は自分なりに音を取捨選択し発見する。この取捨選択発見というのは作曲している行為と言えると考える。観客は観客でありながら同時に作曲者になることが可能なオープニング曲だと思う。

ここで、ジョン・ケージ4分33秒を思い出した。ジョン・ケージ4分33秒の無演奏の間観客に色々な環境音を聞いてもらいたかったのだろう。そのことは、観客でありながら作り手になることでもある。

音楽、演劇、美術、小説などは、作り手と享受者の関係で作られ楽しまれているが、この関係が逆転することで受動と能動が入れ替わる。観客でありながら芸術に主体的に関われる事になる。

憧れていた「平等」が芸術の鑑賞行為の中で主客の交換という形で実現される事になる。

主客交換