干場良光のブリコラ日記

アート全般に関する忘備録です。

サブカルは教養

現在、批評家は20世紀よりもずいぶん少なくなってきて居ると思うが、佐々木敦椹木野衣は教養としてサブカルチャー(ロック、フリージャズ、クラブシーン)に若い頃はまっていた時期があったことが、21世紀になってもサブカルののおかげで美意識や感性が古びず、残っている原因になっている。

札幌国際芸術祭2017のコンセプト

=「無用の介」たちが跋扈した「札幌国際芸術祭2017=

<全てのモノは無用の用として存在することで、多様性と自由を獲得することが可能>

札幌市街地や郊外のあちこちに配された日用品は、壊れることによってその物質性が強調され前面化する。そこから物質が本来備えている多様な意味が現れる可能性がある。日用品は人間に使われてナンボのものだが、壊れることでモノの別用の可能性が見出され、再生することが可能になる。

サブタイトルの「ガラクタの星座たち」にあるように、ガラクタとなった壊れた日用品のモノの気が「モノの怪」となってこの世界を跋扈する。札幌の色々なところに展示されたモノたちは、壊れて「用」が外れることで、物質に内包された多様な意味が再生する可能性に満ち溢れたモノの一例として展開されていた。

 

「祭」の部分はコミュニケーションの形成や自由の教育のツールとして芸術は、有効活用できることを立証しようとしていたように見えた。

これらの「芸術」と「祭」の試みは会期中、会場のあちこちで多発的に行われた。

作品とコンセプト

現在の美術家は、それなりに教養ある人も多く、作品を作るだけではなく自分の作品のコンセプトを朗々と語る人も多い。40代、30代の美術家はヨーロッパの影響を受けた美術大学の教師により自分の作品のコンセプトを語ることも訓練されている様だ。日本にはその文化は無いが、西洋美術史は時代の精神を象徴するものとして芸術作品、芸術家は尊敬されるべきものとして存在し続けた。美術が表面の色や形だけでは無く概念や精神をあらわし、そのことが重要だとマルセル デュシャンの「泉」は証明した。

デュシャン影響もあり、現在の美術には言葉も必要だということになった。というわけで、若い美術家は自作のコンセプトを述べる様になった。それは、大学教育のせいでもある。若い美術家をdisるのは可哀想。それと90年代頃から批評家、評論家がいなくなった所為もある。

その代わり、キュレーターというのが出てきたが。

即興音楽

即興音楽とは、音楽の伝統的なルールに従わないし、人間の意図的な音も出さない様にする。そうなると、人間の自然つまり、動物的な感覚に従って音を出すことになる。文化的なルールには従わないが、自然の法則に従って音を出すことになる。独創的な音楽を比べると、即興と独創の言葉が違うためか、自然の法則に従わざるを得ない即興音楽は一定のパターンが見られる様に思う。

 

平等とか

マームとジプシーの演劇スタイル、大友さん達のアジアンミーティングという演奏会。1枚の床に演者と観客が同時存在。指輪ホテルの演劇は時には観客は演技者になってしまう。これらはいずれも演者と観客という対立が避けられて展開する。3者のディレクターには演者と観客を区別しないで平等に扱うという精神が共有されている様に思われる。

平等というと平面、村上さんのスーパーフラットアンディ・ウォーホルのコンセプチュアルポップなどの作品のコンセプトを思い出す。

更に、アジアンミーティングの演奏の仕方や観客の関わり方を見ると、演者と観客も同じ床の上でそちこちに点在し、それぞれが関係しあったり断絶したりして、演奏は継続されている様だ。この構造は、インターネットの構造と似ている。お互いが3次元的あるいは4次元的に、まるで、立体的な網状構造の様に接続しあったり、断絶したり。しかもそのタイミングは偶然性によって支配されているように演じられている様だ。もはや、観客の中にも演じていることを意識してしまう人が出てきそうだ。コレクティブオーケストラでは、奏者と指揮者が交換可能で、奏者と指揮者は交換可能であることを示し、次々と交代して指揮を執っていた。3次元的、4次元的あるいは永遠に続くN次元的構造は細胞や宇宙の構造とも似ている様にも思う。大友さんは自然なる構造として、ネットの構造を意識して採用したのではないか。あともう一つ梅田さんと堀尾さんの作品に見る物に命が宿っている様に見える作品について次に考察する。