干場良光のブリコラ日記

アート全般に関する忘備録です。

4分33秒と大友良英のコレクティブオーケストラ#札幌国際芸術祭2017

#札幌国際芸術祭2017で実施された、大友良英によるコレクティブオーケストラ。1年かそれ以上、大友と劇作家などによって子供達を募集し練習してきたとのこと。オープニング曲は、小学3年生くらいのピアノも引いたこともなく練習もしたこともないような男子によるパイプオルガンの鍵盤を5音適当な感じで鳴らして始まった。鳴らし終わったら、オルガンに続く階段を降りて自分の定位置であるだろう舞台上の椅子に恥ずかしそうに座った。椅子の上に置いてあったリコーダーを手にした。空席の椅子だけが並べられて他に演奏者であるだろう子供達はまだ座っていない。音楽らしいものは全く始まっていない。時々ハウリングと言うのだろうか、電子音、機械音。キーンという感じの快と不快のギリギリの感じの音。疑心暗鬼でいつ始まるのか、これはもう始まっているのか、私は自問自答をしながら目を閉じ耳を凝らす。無音のような状態がしばらく続く。

可愛らしい音が聞こえてきた。目を開け見渡すと、お米を入れたペットボトルなど手作りの楽器を手にして、客席後方の階段から降りてきた。やがて舞台袖の階段を登りオーケストラのそれぞれの椅子に座った。どうやらコンサートは始まるようだ。多分ここまでがオープニングの一曲目だと思う。オープニング曲の間今までにないくらい耳に神経を集中させた。お陰で米がこすれるときの音や子供が階段を下りる時の音がこんなにも美しいと気ずくことができた。大友さんは観客が魅力的な音を発見する構造を設定し、観客は音楽の受容者でありながら同時に音楽の発見者になりうる。演奏者とそれの需要者としての立場が逆転というほどでもないが、聴取者である私は会場に漂う音を自分なりにキャッチし発見した。たまたまその音を美しいと感じた。別な聴取者はその音を聞いてもただの歩いてる音なのでなんとも感じていない人もいる。大友さんは場を提供し、観客は自分なりに音を取捨選択し発見する。この取捨選択発見というのは作曲している行為と言えると考える。観客は観客でありながら同時に作曲者になることが可能なオープニング曲だと思う。

ここで、ジョン・ケージ4分33秒を思い出した。ジョン・ケージ4分33秒の無演奏の間観客に色々な環境音を聞いてもらいたかったのだろう。そのことは、観客でありながら作り手になることでもある。

音楽、演劇、美術、小説などは、作り手と享受者の関係で作られ楽しまれているが、この関係が逆転することで受動と能動が入れ替わる。観客でありながら芸術に主体的に関われる事になる。

憧れていた「平等」が芸術の鑑賞行為の中で主客の交換という形で実現される事になる。

主客交換